2014年05月05日

1 花川流域

【わが町文化史「和の里今むかし」より】「江戸時代初期、中期の石高から、花川流域の和地、西大山、東大山は、豊かな水に恵まれ早くから稲作が行われ近隣の村々の中で一番石高が多かった」この豊かな水は何処から流れてきたのでしょうか。
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花川は、今の三方原町~花川町(花川運動公園内)~和地町を流れ下って浜名湖に注ぎ込んでいます。この川の源は轡橋から北星橋の近くでこの橋の袂には「轡淵(くつわぶち)」の愛称標識があり以下のように記されています。
(1)花川の水源地の轡淵伝説
「花川の水源地である轡淵(くつわぶち)は、かつて滝壺のように深くえぐられた池になっていた。ある時この池には化け物が住み着いているという噂がひろがった。これを聞いた一人の若者が池に潜ってみると、キラリと光るものがあり、引き上げてみるとそれは馬の轡だった。以来、轡淵と呼ばれるようになった。一説によると、この轡は、三方原合戦のとき、馬に水を飲ませていた兵士が、敵に襲われ轡も捨てて逃げていったときのものだと言われている」

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(2)花川の起点
北星橋の近くに有る花川の「起点」標識。これより上流は第三幹線排水路です。
2 支流大谷川
大谷川は大山町内を流れ西山橋を下った途中で桜台の桜大橋の手前で花川に合流する支流で、起点は姫街道にかかる大谷橋付近にあります。
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これより上流は、浜松「ゆうゆうの里」地先で三方原第四・第五幹線排水路の二つ分かれており根洗町や三方原町内に通っています。その中には、姫街道の清水橋や清水公民館もあり、湧き水があったと思われます。
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大谷川のことが江戸時代中期の東海道浜松宿大概帳に、次のように記されている。「前山村地内字谷川有、幅大概六間程、平日は飛石にて通路いたし、重き通行有之節、仮土橋掛渡通路いたす、此川水元は近村山内より流れ来、流末は和地村より海江落る。」「大谷川 飛石渡。是ハ飛石渡リニ而平日七八間程常水有之、出水之節ハ拾四五間ニモ相成候得共、川支之儀等無之、・・・」(本坂道村々雑之部)(わが町文化史「和の里今むかし」より)
(1) 根洗松の石碑と町名の由来
「根洗松の石碑」より【根洗松は、三方原の北はずれにそびえる古松である。雨が降るたびに根が洗われ根洗松と呼ばれるようになった。
鳳来寺街道に沿っているので むかしから目じるしとなって旅人に親しまれたばかりでなく この地に住みついた人たちにとっては心の支えであった 里人 この古松の常に変わらぬ緑を仰ぎ梢をわたる松風を励ましと聞いて朝に夕になりわいにいそしんできた そしてようやく豊かに人家も増し根洗町と名つけることとなった今 そのいわれを石に彫り いつまでも伝えるわけである】
昭和51年11月吉日三方原用水土地改良事業完成に伴い町名を変更して建之
 根洗町自治会 となっています。
この地域は、戦後、満蒙開拓に参加された義勇軍の方々が中心になって入植し、当初は葦芽(あしかび)農場から根洗松帰農組合、根洗松開拓農協として開拓がはじまったところです。
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写真 根洗橋(第五幹線排水路)の袂に建つ石碑と2代目根洗松( 昭和57年3月)
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初代の松が枯れて昭和57年3月2代目の松が植えらたが今ではそれも枯れて石碑のみが建っています。
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写真 根洗公民館に建つ石碑(第4幹線排水路)
① 根洗松伝説と根洗松の写真
根洗松には「三方原の戦の時、武田信玄が本陣を置いた場所で物見の兵がここの松に登って見張りをした」と言われています。
そこで、公民館に展示してある切株の年輪を数えてみましたが約130年生の松のようです。人々の夢を奪うようで申し訳ありませんが三方原の戦(1572年)があったのは、今から440年前となっていますから三代目位の松かもしれません。
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写真は第4幹線排水路沿いの根洗公民館に建つ石碑、現在は二代目の松も枯れていました。
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この年輪から見て生長過程において洪水と風の影響を受けたものと思われます。倒れそうになった幹を支えようとしたのか写真上部の年輪幅が広く、下部は幅が狭くなっていることで分かります。
② 青山領分絵図
浜松城主(延宝6年~元緑15年まで)在城した青山氏が作成させた浜松市域を示す絵図で、複製絵図が浜松市博物館に拡大展示してあります。
これを見ますと大谷川の上流は金指道をまたいで台地から小川流れ出ていたようです。この小川の洪水によって根が洗い出された松が多くあったと思われます。
③ 秋葉の水の流れる里
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「秋葉の水の流れる里」の石碑より「雨が降れば道路は排水路と化し床下浸水も珍しい事ではなく、また旱魃が続けば大地はひび割れ、作物は枯れ死寸前まで追いやられる。・・・中略・・・昭和35年秋葉ダムからの取水する国営三方原水利事業に着手・・・中略・・・道排水路拡幅と圃場整備を進め昭和51年6月畑地灌漑用スプリンクラー設置・・・中略・・・三方原台地百年の夢を果たした」この碑文からも分かりますが開拓に従事した人たちは、洪水や干ばつに悩まされてきたことが分かります。
④ 命の水
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水がなかったら、人は生活できないどころか生きて行くことが出来ません。今はコックをひねると必要な水が何時でも何処でも出てきますが水道がなかった頃は井戸を掘って生活していました。三方原台地に降った雨水は砂礫層の中に地下水となって貯えられ台地の斜面下部から湧水となって流れ出て表層水とともに開析谷を作ってきました。この地下水を貯えている砂礫層まで縦穴(井戸)を掘り釣瓶で水をくみ上げるのは大方が子どもたちの仕事でした。
その年の降水量によって、地下水位は変わるため井戸が枯れることがあり水不足に悩まされることが度々あったようです。そこで、根洗、百里、百里園、清水、聖隷の五町は1980年(昭55年)浜松市三方原北部上水道組合を設立1995年10月31日一致協力して上水道を完成させました。
その後、大原浄水場が完成後平成4年12月21日(1992年)浜松市上水道部に統合しました。
(2)大谷川の水神様
大谷橋近くの川沿いの私有地にあった大谷の水神様は、現在は大谷稲荷神社に移設し合祀されています。
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(3)下の谷水神社(和地町)
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旧舘山寺街道の道沿いにあり、昔から村の事の始めの神として祀られ旱魃が続いた時には、松明を水中に献じて雨乞いをしたと伝えられています。花川は、流域の湖東町(和地)、東大山、西大山一帯の広大な水田地帯を潤し水には不自由がない水田地帯であったことに加え浜名湖に近く、生業は半農半漁の人たちもあり湖の近くに祀られたと思われます。
(4)花川と大谷川の水車
花川とその支流大谷川も水量が豊富で、水車を営む人は十軒あり、下流から、花川水車、宮前水車、蒲田水車、与五郎水車、兼八水車、油屋水車、伊勢松水車、幸太さ水車、新城小屋水車、気賀の谷水車があった。水車で作られた製品は近隣の村々や笠井市場へ運ばれた。また、原料の流通路としては浜名湖が利用された。(わが町文化史「和の里今むかし」より)
(5)里山の会 ほそえ
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大谷橋を下ったところで「里山の会 ほそえ」が活動しています。昔懐かしい里山の風景があり湧き水の流れる小川や台地に上がる山の小道が近くの幼稚園児や小学生が自然に触れる場所になっています。会の皆さんは里山の風景の中で虫や小鳥とともに弥生時代と同じように手作業による黒米や野菜作りの楽しさを後世に伝えていこうと地域の人たちの交流を兼ねて頑張っています。
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(続く・・・)

* 防潮防風林から松を排除するのはミスリードではないのか。
* 根上がり松
* 桜島火山灰地の松
* マツタケ山に植林されたのマツノザイセンチュウに強い松
*  三方原防風林

現在検討中です。乞うご期待ご期待




この記事へのコメント
ご無沙汰しております。
先日は大変貴重な資料を頂戴いたしましてありがとうございました。
またお会い出来る事を楽しみにしております。
花川流域の情報は大変勉強になります。私は姫街道はいつの時代から大谷川を渡るようになったのかを調べている途中です。
あと青山領分絵図は年内中にデータベース化されるようですね。PCで手軽に見れるようになるのが楽しみです。
追伸ですが例の三方原合戦絵図の複製を手に入れようかと思っております。
Posted by たくと at 2014年05月07日 11:39
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プロフィール
水神の杜人
宇宙船地球号で84回太陽の周りを回った里山・子ども大好きな航空自衛隊OBです。
出身地は、アニメ「もののけ姫」の舞台になった出雲の近く「たたら製鉄」自然破壊の跡が残る山里。アカマツとコナラの生える明るい山々が連なる鳥取県西部の南部町です。今では、このアカマツやコナラも立ち枯れが進み残念に思っているところです。

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