新川
・新川の源流「不遣に池跡」と「厳島神社」
・命天慶和尚
不遣の池跡近くにある厳島神社や轡(くつわ)淵の伝説は、台地の緑と湧水の流れる自然のなかから真偽のほどは別にして人々によって語り継がれてきたものでしょう。ところで、三方原台地は「遠州風土記伝」などによって伝えられるように、長い間原野のままの秣場(まぐさば)であったのでしょうか。台地が誕生してから台地の植生はどのように遷移してきたのでしょうか。陽樹のアカ松は、土壌条件の悪いところでも菌根で生長できるので、姫街道沿いだけでなく台地はアカ松の森であったのではと推測しています。そのアカ松は浜松城下や周辺の村々の人びとの建築用材などとして伐採されて原野になったのではと思っています。
航空自衛隊浜松基地南側外周道路沿いに「不遣の池」の愛称標識が立っています。この蛇池は、飛行場建設時に埋め立てられて今ではありませんがここが源流であったと言われています。
厳島神社の「蛇池の由来」には、「永享4年今から540年ほど前室町時代の頃三方原台地続き和地往還ぞいに大きな池がありました。昼なお暗く老松、かなぎ(鉄釘の木?)の大木がおいしげり池の水面は、青黒く光り満々の水をたたえ、梢を吹く風は静かにゆれていました。この池には大蛇が住み、道行く人々に危害を加えていました。不遣(やらず)逃がさず殺さずと言って人々に恐れられて、不遣の蛇池と呼ばれていました。
中略・・・これを聞いた華蔵禅師は弟子の命天慶和尚に命じ人々の災いを断つ様に! 和尚が、命を受け池の辺りに立つと、凡そ6・7米もある大蛇が現れました。和尚は、大蛇に向かい「汝等の形は大である。若し霊あらば小身になり、吾が鉢に入れよ、然る時は広沢に移して鎮守に祭る。」と言った。言(ことば)の終わらざるに一蛇は、忽ち小身になり鉢に入りました。
和尚は、華蔵禅師と相談して、守護の鎮守白山妙理大権現(現在の普済寺)として祀りました。他の一蛇は、祠を建て弁財天として祀る。」
これが現在の弁天様(厳島神社)と伝えられています。(「寸田ヶ谷の里」三社神社総代会資料より)弁財天を水の神とする考えは、江の島に関する伝説にもあり、水神の使いは蛇とも言われています。
地元の人々は、この森を「水神の森」と呼んでいます。
命天慶和尚
庄内町にある宿蘆(芦)寺(しゅくろじ)は、文正元年(1466)佐田城主堀江下野守久実の開基で、浜松普済寺より
命天慶和尚(不遣の池で人々を悩ましていた大蛇を法力によって改心させた傑僧と称せられる。)をお迎えして開山した寺です。(わが町文化史「碧い湖と緑の半島庄内」より)
(命天慶和尚開山の宿蘆寺)
(堀江藩主大澤公歴代の墓所)
冨塚の水車の歴史としては、享和3年(1803)佐鳴湖の南の入野村から銀蔵という人(現 青木製油所初代)が冨塚の地に来て新川沿いで水車を動力として製油業を始めたのが、冨塚の水車の始まりと言われている。(大正12年「浜名郡工場調査表」から水車使用者抜粋)16軒の水車小屋があり、牛ヶ池では、明治26年静岡県で最初の水力発電が行われた。(わが町文化史「とみつか」より)
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