2015年12月20日
12月活動報告
このところ暖冬が続いていましたがやっと冬らしい寒さがやってきました。小春日和の今日は新年を迎える準備をしました。
①花の会の皆さんは、花壇整備を行いました。

②池の中、側溝、水路の落枝落葉取り


③水神社周辺のガードレールの清掃

④休憩時の様子
今日は、神社清掃・墓地清掃があり掛け持ちでの参加がありました。何時もながらの差し入れのサンドイッチをいただきました。

お知らせ:-
①防潮堤秋季市民植栽
11月29日(日)市民参加の防潮堤秋季市民植栽にラブ・ネイチャーズの一員として参加してきました。こんな穏やかな遠州灘が津波となって押し寄せることがないことを祈って、穴掘りをしてきました。


この堤防は、一条工務店からの寄付金300億円を原資として、整備工事が進行中です。どんな堤防ができたのか、どんな木が植えられるのか、この目で確認してきました。
当初、松は、東日本大震災で
* 陸前高田の7万本の松原が津波で壊滅(根張り少ないとか)。
* 陽樹であること(実生で育たないとか)。
* アメリカマツの在線虫による松枯れが進んでいる。
ことなどから宮脇先生提唱の広葉樹の植栽が検討されたようでしたが、抵抗性ある松と広葉樹の混植で自然環境・景観に配慮した植栽がおこなわれ「松派」の私は安堵しました。「一条堤」として未来永劫言い伝えられることになると思っていす。
② 西山町後期防災訓練
西山町は、地域防災の日12月6日(日)後期自主防災訓練を多目的広場で実施しました。「災害は忘れたころにやってくる」。このような訓練が町民の防災意識の高揚になるでしょう。

③世界土壌デー
国際土壌年の12月5日は、世界土壌デーでした。「土に育まれ土に還る」(日経より)。土壌と言ってもいろいろな種類がありますので、身近な土壌について考えてみました。日本で一番多いのは「褐色森林土」といわれています。表層は、生物の有機物を、昆虫や菌類が分解して長い長い年月をかけて堆積してできたもので黒っぽい土壌です。
*水神の森の褐色森林土


この森の中で倒木や枯れ枝などが分解されてできた土は水を含み、肥料を貯えいろいろな生き物を育ててくれます。例えば、この土の中にはミミズ、ダンゴムシ、カブトムシの幼虫などが棲んでおり、これらを食べにモグラや青大将がやってきます。また、発芽し生育した植物には、葉っぱを食べに蝶々などの幼虫が、さらに、実ができたらそれを食べに小鳥がやってきますので、林内では「食べる、食べられる」「命のつながり」の場所になっています。水で流失して岸辺に堆積した土は、プランクトンを育み、東神田川や浜名湖の魚の餌となっていると言えるでしょう。
*三方原台地の赤土

和合町静銀住吉支店建設工事現場で撮影した地層(12年1月)

大平台小学校近くの畑で撮影した地層(11年2月)

東神田川護岸工事現場で撮影した地層(15年11月)下部の灰色部分は粘土層(浜松累層佐浜相)
三方原台地は、更新世の時代に天竜川の扇状地が三回にわたって隆起してできたもので、その河岸段丘は、台地の東縁の浜北万葉の森周辺、浜松医大周辺、四ツ池周辺で見られます。
「更新世は洪積世ともいわれ258万年前から1万年前までの期間で、そのほとんどが氷河期であった」。(ウィキペディアフリー百科事典引用)
台地の土は、赤土と言われていますが、上の写真を見ると場所によって多少の色違いがあるようです。いずれの土もマグネシュウムやカリュウム分が流失した鉄分を含んだ酸性度の強い粘土質の土で耕作には不適とされていました。
この台地では、江戸時代に、北藪から浜松医大周辺で開拓が試みられたが水がなく失敗に終わった。(「三方原略史」より)
明治期の開拓は、追分から三方原神社周辺で行われた。(「開拓の碑」は三方原神社敷地内)


戦後の開拓は、三方原地区(「開拓之碑」は三方原開拓農協の敷地内)及び、高丘地区(「開拓の史」は中区高丘町瑞穂神社の敷地内)で行われた。


戦後の開拓が進み、立木が無くなった台地は、遠州地方特有の空っ風に悩まされ、三方原地区には87,000本の松を植栽して防風林が設けられた。(「赤土の台地に夢を」中津川精氏遺稿集より)浜松市は、テクノ道路沿いの日陰部分を三方原防風林緑地公園として、防風林の機能と地域の景観を守る「みどりのまちつくり」の拠点としています。その他の防風林は、三方原開拓防風林原野委員会が管理しています。


戦後の開拓・明治の開拓ともに、水を求めて赤い土との戦いであったと言われています。昭和35年から三方原用水の取水(取水の記念碑は根洗公民館)が始まり、三方原ジャガイモに代表される農業産品の生産性も向上してきました。台地の開拓を象徴する言葉「赤土・水・空っ風」はこれからも語り継がれていくことでしょう。


*伯耆大山の黒ぼく
私の郷里の大山は、標高1709m中国地方の最高峰日本百名山一つです。最後の噴火は1万年前と言われ死火山と言われていましたが近年では休火山説もあるようです。

大山の鍵掛峠(800m)から見た大山とブナ林(14年10月)

大規模な崩落が進んでいる南壁の一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢(14年10月)

ブナ林の中の砂防ダム(14年10月)

鍵掛峠へ紅葉見物に行った帰り、道路工事の現場で見つけた黒ぼく土の地層です。(14年10月)
高校球児が甲子園出場記念に持ち帰る球場の土は、以前は、「保水力と粘りのある」この黒ぼく土と鳥取砂丘の砂を混合したものと言われていましたが最近では、どこの土か公表していないとのことです。
大山山麓でも、中国大陸から引き揚げた香川県出身者が中心となって戦後開拓が行われました。三方原台地の開拓と同じように、黒ぼくは酸性度が強く、水はなくその上に半年に及ぶ積雪との闘いが語り継がれています。今では酪農を中心とした農産物の生産拠点となっていた黒ぼくの大地も、人口減少と高齢化が進んでいるようです。
①花の会の皆さんは、花壇整備を行いました。
②池の中、側溝、水路の落枝落葉取り
③水神社周辺のガードレールの清掃
④休憩時の様子
今日は、神社清掃・墓地清掃があり掛け持ちでの参加がありました。何時もながらの差し入れのサンドイッチをいただきました。
お知らせ:-
①防潮堤秋季市民植栽
11月29日(日)市民参加の防潮堤秋季市民植栽にラブ・ネイチャーズの一員として参加してきました。こんな穏やかな遠州灘が津波となって押し寄せることがないことを祈って、穴掘りをしてきました。

この堤防は、一条工務店からの寄付金300億円を原資として、整備工事が進行中です。どんな堤防ができたのか、どんな木が植えられるのか、この目で確認してきました。
当初、松は、東日本大震災で
* 陸前高田の7万本の松原が津波で壊滅(根張り少ないとか)。
* 陽樹であること(実生で育たないとか)。
* アメリカマツの在線虫による松枯れが進んでいる。
ことなどから宮脇先生提唱の広葉樹の植栽が検討されたようでしたが、抵抗性ある松と広葉樹の混植で自然環境・景観に配慮した植栽がおこなわれ「松派」の私は安堵しました。「一条堤」として未来永劫言い伝えられることになると思っていす。
② 西山町後期防災訓練
西山町は、地域防災の日12月6日(日)後期自主防災訓練を多目的広場で実施しました。「災害は忘れたころにやってくる」。このような訓練が町民の防災意識の高揚になるでしょう。
③世界土壌デー
国際土壌年の12月5日は、世界土壌デーでした。「土に育まれ土に還る」(日経より)。土壌と言ってもいろいろな種類がありますので、身近な土壌について考えてみました。日本で一番多いのは「褐色森林土」といわれています。表層は、生物の有機物を、昆虫や菌類が分解して長い長い年月をかけて堆積してできたもので黒っぽい土壌です。
*水神の森の褐色森林土
この森の中で倒木や枯れ枝などが分解されてできた土は水を含み、肥料を貯えいろいろな生き物を育ててくれます。例えば、この土の中にはミミズ、ダンゴムシ、カブトムシの幼虫などが棲んでおり、これらを食べにモグラや青大将がやってきます。また、発芽し生育した植物には、葉っぱを食べに蝶々などの幼虫が、さらに、実ができたらそれを食べに小鳥がやってきますので、林内では「食べる、食べられる」「命のつながり」の場所になっています。水で流失して岸辺に堆積した土は、プランクトンを育み、東神田川や浜名湖の魚の餌となっていると言えるでしょう。
*三方原台地の赤土
和合町静銀住吉支店建設工事現場で撮影した地層(12年1月)
大平台小学校近くの畑で撮影した地層(11年2月)
東神田川護岸工事現場で撮影した地層(15年11月)下部の灰色部分は粘土層(浜松累層佐浜相)
三方原台地は、更新世の時代に天竜川の扇状地が三回にわたって隆起してできたもので、その河岸段丘は、台地の東縁の浜北万葉の森周辺、浜松医大周辺、四ツ池周辺で見られます。
「更新世は洪積世ともいわれ258万年前から1万年前までの期間で、そのほとんどが氷河期であった」。(ウィキペディアフリー百科事典引用)
台地の土は、赤土と言われていますが、上の写真を見ると場所によって多少の色違いがあるようです。いずれの土もマグネシュウムやカリュウム分が流失した鉄分を含んだ酸性度の強い粘土質の土で耕作には不適とされていました。
この台地では、江戸時代に、北藪から浜松医大周辺で開拓が試みられたが水がなく失敗に終わった。(「三方原略史」より)
明治期の開拓は、追分から三方原神社周辺で行われた。(「開拓の碑」は三方原神社敷地内)
戦後の開拓は、三方原地区(「開拓之碑」は三方原開拓農協の敷地内)及び、高丘地区(「開拓の史」は中区高丘町瑞穂神社の敷地内)で行われた。
戦後の開拓が進み、立木が無くなった台地は、遠州地方特有の空っ風に悩まされ、三方原地区には87,000本の松を植栽して防風林が設けられた。(「赤土の台地に夢を」中津川精氏遺稿集より)浜松市は、テクノ道路沿いの日陰部分を三方原防風林緑地公園として、防風林の機能と地域の景観を守る「みどりのまちつくり」の拠点としています。その他の防風林は、三方原開拓防風林原野委員会が管理しています。
戦後の開拓・明治の開拓ともに、水を求めて赤い土との戦いであったと言われています。昭和35年から三方原用水の取水(取水の記念碑は根洗公民館)が始まり、三方原ジャガイモに代表される農業産品の生産性も向上してきました。台地の開拓を象徴する言葉「赤土・水・空っ風」はこれからも語り継がれていくことでしょう。
*伯耆大山の黒ぼく
私の郷里の大山は、標高1709m中国地方の最高峰日本百名山一つです。最後の噴火は1万年前と言われ死火山と言われていましたが近年では休火山説もあるようです。
大山の鍵掛峠(800m)から見た大山とブナ林(14年10月)
大規模な崩落が進んでいる南壁の一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢(14年10月)
ブナ林の中の砂防ダム(14年10月)
鍵掛峠へ紅葉見物に行った帰り、道路工事の現場で見つけた黒ぼく土の地層です。(14年10月)
高校球児が甲子園出場記念に持ち帰る球場の土は、以前は、「保水力と粘りのある」この黒ぼく土と鳥取砂丘の砂を混合したものと言われていましたが最近では、どこの土か公表していないとのことです。
大山山麓でも、中国大陸から引き揚げた香川県出身者が中心となって戦後開拓が行われました。三方原台地の開拓と同じように、黒ぼくは酸性度が強く、水はなくその上に半年に及ぶ積雪との闘いが語り継がれています。今では酪農を中心とした農産物の生産拠点となっていた黒ぼくの大地も、人口減少と高齢化が進んでいるようです。
Posted by 水神の杜人 at 17:09│Comments(1)
この記事へのコメント
子供達の心を育む水神の森と川を守っていただき、ありがとうございます。
Posted by 匿名 at 2016年01月05日 01:08