2015年04月15日
呉松川の水出観音様
呉松川の水出観音様
呉松川は、水出観音様を水源地にして新呉松橋を通って浜松市動物園近くの浜名湖に注ぎ込んでいます。以下(深萩町「水出観音」現世話役油井氏提供資料より)元禄十年(1697)二月、信心深い村人達が深萩の谷間に観音像を安置した。その位置が呉松川の水源地であった所から、「水出の観音様」と呼ばれて今日に至っている。霊験あらたかな話もあり今でも大勢の信心深い人々が参詣している。春(二月十七日)・夏(八月十七日)に呉松町と深萩町の合同供養祭が宿芦寺の方丈さんをお迎えして行われている。
・水出観音の仇討
はなしは幕末の頃のこと、伊賀上野の藤堂和泉守の藩中に、友川右内という武士がいた。友川は、京都の朱子学の大家小沢天爵に入門したが、天爵の娘おさよのことで天爵を殺して出奔した。
・おさよの許嫁者であった柳清四郎は、おさよと共に仇討ちに出かけ、諸国を捜し廻ったあげく、三年目の天保四年(1833年)七月十七日に、水出の観音に参詣して、仇にめぐりあう日の一日も早からんことを祈願した。
・観音様のご加護?目指す右内も折よくここに来ていたので、めでたく本懐をとげることが出来た。仇討の現場を目撃した和地村の江間三次郎は、腰を抜かして逃げおくれ、呉松村のもろこし畑にほうほうのていで逃げのびたという。清四郎の使った太刀は、ある奇篤な信者がゆずり受けて、水出観音の宝物として奉納したが、昭和四十年(1965年)警察へ差出した。
・その時の清四郎の手傷は、呉松の小林と言う名医によって完治したので、そのお礼として花火の作り方を教えて去った。それから呉松村の祭礼には花火を打ち上げる習慣が今も続いている。(註 ここでいう花火は「手筒花火」のことである)(油井氏提供の資料より)
呉松川は、水出観音様を水源地にして新呉松橋を通って浜松市動物園近くの浜名湖に注ぎ込んでいます。以下(深萩町「水出観音」現世話役油井氏提供資料より)元禄十年(1697)二月、信心深い村人達が深萩の谷間に観音像を安置した。その位置が呉松川の水源地であった所から、「水出の観音様」と呼ばれて今日に至っている。霊験あらたかな話もあり今でも大勢の信心深い人々が参詣している。春(二月十七日)・夏(八月十七日)に呉松町と深萩町の合同供養祭が宿芦寺の方丈さんをお迎えして行われている。
・水出観音の仇討
はなしは幕末の頃のこと、伊賀上野の藤堂和泉守の藩中に、友川右内という武士がいた。友川は、京都の朱子学の大家小沢天爵に入門したが、天爵の娘おさよのことで天爵を殺して出奔した。
・おさよの許嫁者であった柳清四郎は、おさよと共に仇討ちに出かけ、諸国を捜し廻ったあげく、三年目の天保四年(1833年)七月十七日に、水出の観音に参詣して、仇にめぐりあう日の一日も早からんことを祈願した。
・観音様のご加護?目指す右内も折よくここに来ていたので、めでたく本懐をとげることが出来た。仇討の現場を目撃した和地村の江間三次郎は、腰を抜かして逃げおくれ、呉松村のもろこし畑にほうほうのていで逃げのびたという。清四郎の使った太刀は、ある奇篤な信者がゆずり受けて、水出観音の宝物として奉納したが、昭和四十年(1965年)警察へ差出した。
・その時の清四郎の手傷は、呉松の小林と言う名医によって完治したので、そのお礼として花火の作り方を教えて去った。それから呉松村の祭礼には花火を打ち上げる習慣が今も続いている。(註 ここでいう花火は「手筒花火」のことである)(油井氏提供の資料より)
Posted by 水神の杜人 at 13:29│Comments(0)
│呉松川の源流